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文久3年4月7日(1863.5.24)
【江】京都の老中板倉勝静から速見又四郎ら
浪士組取締役並出役に清河暗殺の密命が届く

■東帰浪士・清河八郎暗殺
【江】文久3年4月7日(1863年5月24日)、将軍とともに上洛中の老中板倉勝静から浪士組取締役並出役速見又四郎らに清河八郎暗殺の密命が届いたそうです。翌8日から速見は同役の佐々木只三郎と申合せて機会をうかがったところ、清河はいつも5人ずつ浪士を連れて用心していたそうです(「清河八郎逢切害候始末書写」『官武通紀』)

<ヒロ>
「清河八郎逢切害候始末書写」は同時代記録ですが、どのような性格の資料なのかよくわかりません。(探索書あるいは風説書?)。板倉は、「清川八郎切支丹にて身を隠し候由、中々手取にては手に入兼候間、だまし打に討取候様」と内命したそうです。なお、「始末書写」では、3月の浪士組東帰中に速見が長州から清河に宛てた密書を入手し、「御大事の儀」なので急ぎ板倉に報告し、以後、速見は清河や浪士に眼をひからせていたとしています。(こちら) 板倉の指令は速見の報告を受けてのことということになるのでしょう。なお、密書の内容は清河ら東帰浪士組と京都の長州藩が呼応して決起するというものだったと推測されます。

板倉と速見の関係については、明治36年の史談会石坂周造の証言時、同席していた史談会幹事の佐田素一郎(旧久留米藩士)が事実関係をこう確認しています。

「(江戸へ)帰って来たとき・・・御老中の周防守(板倉のこと)と云う人がございましたろう。・・・彼の人からの内命があって、清川はどう云う所の趣意か分りませぬけれども何か不審があるから必ず召捕って動向して呉れろと云う其の内命が来たそうでございますな、そこで其の公儀辺のことを彼之れ取扱って居ります速見又四郎と云う者が居ったですがそれが今の早く云えば周防守殿から承ったですね」。

また、高橋泥舟は暗殺指令は老中格小笠原長行からでたと推測しています。(『史談会速記録』)

<参考>『史談会速記録』、『官武通紀・櫻田騒動記』(2002.5.25)
関連:■清河/浪士組/新選組日誌文久3(@衛士館)

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